清少納言は珈琲がお好き

春は午前。晴れた日に洗濯をして布団を干す。風にたなびく洗濯物を窓越しに気にしながら、朝食の珈琲とパンをゆっくり楽しむ。インスタントの日もあればドリップの気分の時もある。トーストにバターとジャムの日もあればパンオショコラの時もある。風の音と鳥の声が心地良いと感じる時は、テレビの音は邪魔だから消す。春の風と、音と、陽だまりと共に味わう珈琲は至極格別。


夏は夜。昼間の暑さが落ち着いて、夜風が気持ち良い時分。少し肌寒く感じるくらいがちょうどいい。温かいカフェラテをマグに入れてバルコニーに持ち出す。椅子に座って夜空を見ながら、夏の夜風と珈琲を味わう。誰かと深く語り合うも良し、1人遠い世界に想いを馳せるも良し。頬の産毛を夜風が撫でていくのが気持ちが良くて、段々と眠りの世界に誘われる。


秋は3時。晴れて少し風のある日の公園のベンチ。黄金色に輝く木々が、揺れながらカサカサと秋の音を奏でる。近くのコーヒーショップで大きいサイズのキャラメルラテをテイクアウト。この珈琲を飲み終えるまで読書の時間とする、と緩く心に決める。大きめのストールを体に巻くと、首元から包まれる心地よさと、守られている心強さを感じる。


冬は朝。今にも雪が降りそうな湿った空気の曇りの日。私を布団から引きずり出したのは、誰かが淹れた珈琲の香り。窓を開けると冷たい空気と冬の匂いが入ってくる。こういう寒い日は何もしないでのんびりしててもいいのよね、と自分自身に許しを請う。こういう寒い日は、ついつい珈琲が甘くなる。

前に進めない時

ボロボロの自転車では走り出せる気がしないというのは当たり前。

でも、悪いところを修理して、空気も入れてオイルも差してピカピカに磨いたら、早くどこかに行きたいっていう気持ちに自然となってくる。もしかしたら行きたい場所は最初から決まっているかもしれない。

気づいたらペダルに足を掛け、一漕ぎ、もう一漕ぎ、初めは重かったペダルも段々軽くなっていき、もう後はどんどん前に進むだけ。

動けない時というのは、どこかが悪くなっていて今の状態で走り出すのは危険だということを無意識に感じている時。

自転車のチェーンが外れてるのに自覚がなかったり空気が全然入っていないことにも気づいていない時もある。行かなきゃと思っていても何故か前に進めずどんどん焦ってくる。

そういう時は無理して前に進まない。

身体の中で悪い部分は無いか?体の使い方の癖で知らず知らずに負荷をかけていないか?良くないものの考え方で余計なストレスを産み出していないか?身体と心がどのような状態ならもっと楽に生きていけるか?

自分自身を観察して、良くなる方法を模索して実践して身につけていき、多少のストレスに晒されても大丈夫なくらいの心身が出来上がっていく。

そして準備がきちんと整って身も心ももう進んでOKっていう状態になれば、踏み出したいっていう気持ちが無理なく湧いてきて、自然と自分を動かせてくれる。

すぐに行動することが素晴らしい、というような風潮があるけれど、危険な状態で踏み出してもすぐに止まってしまうだろうし、立ち上がることも出来なくなってしまうかもしれない。
でも良い状態で始めれば、ちょっとのことでは動じない。心身がしっかりしているから踏ん張れる。

タイミングを見極めて大切な一歩を踏み出すことこそが、賢い生き方。

気を引くもの

テレビの音だけ聞きながら作業していた時のこと。耳覚えあるCM曲が流れた後、突如3〜4秒の無音が続いた。何事か、と顔を上げて画面を見たが、単に冒頭が無音のCMだった。

あるチェーン展開している飲食店でのこと。新商品やら新サービスやらのカラフルな広告が壁を覆っている中、入り口に一枚だけ、A4の普通の用紙に何か文字が書いてある、業務上の文書のような至ってシンプルな紙が貼られていた。店内で一番簡素な張り紙であるのに、何か只ならぬ、平穏でない雰囲気を醸し出していた為、閉店のお知らせのような類かと思いわざわざ立ち止まって一読したが、ただのポイント制度の導入のお知らせだった。

今の時代、視覚的にも聴覚的にも情報過多である。ガヤガヤと新しい情報が流れてきても、そのうるさい状態が現代の普通である為、特段気にならないし注意もしない。色を多用したりキャラクターを入れたりキャッチーな音楽にしてみたり、色々試行錯誤してもそれによって人目を引くことに成果があるのかは不明である。それよりも、我が一番と目立とうとしている他の広告の中に、全く目立とうとしていない質素で無のものが紛れていたら、そちらの方こそ気になってしまう。

何かとどんどん足していきがちな社会だが、ぐっと引き算されたものにこそ、今の世の中惹かれるのではないだろうか。

不完全への寛容

自分の周りの機械の調子が良くないと、どうにもこうにも落ち着かない。スマホやパソコン、テレビ、HDD、エアコン、電子レンジ、、列挙したらキリがないが、それぞれの不具合の度に苛立ちと不安に苛まれる。

人は機械というものに、正確さと万能さを常に求めている。自分自身、つまり人間に対してはどうだろうか。調子が良い時もあれば悪い時もある。体調が優れない時には少し休むことも、自分自身には許している。しかし、生命の誕生以来、進化しながら何千年と受け継がれてきた人体の素晴らしい機能でさえ、不調や衰えを来すことは皆自覚しているのに対し、人体の精巧さに比べれば遥かに粗雑な作りの機械に対しては、少しの遅れにも一つのミスにも不寛容なのである。

物に対する思いやりが、他者に対する思いやりに繋がる。自分を含め、自分の周りの全ての物事は完全ではないという事実を受け入れると、期待していた通りに事が進まなくても狼狽えることはない。

スマホの調子が悪いから、今日は家で休ませている」そういうことが出来る人に私はなりたい。

見て見ぬ振り

前から歩いてきた人が、私の目の前で躓いた。
この場面での最善の対処は、気づかぬふりをすることである。と言うかそれしかない。
あからさまにそちらを見たり、ましてや大袈裟に「大丈夫ですか?」などと声をかけるのなど以ての外。
'見て見ぬ振り'
道徳の授業で教えるべき。

三角チョコパイの讃歌

声に出して読みたい日本語、
三角チョコパイ」。
どんなに厳つい人でも、この言葉を発すると
とても可愛い。イライラしている人も、この言葉を唱えると少し幸せになる。
怒り狂った若者やどこかの国の独裁者にもぜひ言ってもらいたい。
世界に平和をもたらす言葉、
三角チョコパイ」。
うかうかしてたらあなたの季節が終わってしまっていた。
次に貴方に会える時まで、
私は頑張れていられるかしら。